聖書研究
— 救いについて(64) —
野澤 睦雄
「それで主は、私たちがこのすべての掟を行い、自分たちの神である主を恐れるように命じられたのである。今日のように、いつまでも私たちが幸せになり、私たちが生かされるためである。私たちの神、主が命じられたように御前でこのすべての命令を守り行うとき、それは私たちの義となるのである。」(申命記 6:24-25)
「なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、 神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。神はこの方を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました。ご自分の義を明らかにされるためです。神は忍耐をもって、これまで犯されてきた罪を見逃してこられたのです。すなわち、ご自分が義であり、イエスを信じる者を義と認める方であることを示すため、今この時に、ご自分の義を明らかにされたのです。それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それは取り除かれました。どのような種類の律法によってでしょうか。行いの律法でしょうか。いいえ、信仰の律法によってです。人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められると、私たちは考えているからです。」(ローマ 3:21-28)
4.救ってくださる神
前回、神の「聖」について取り上げました。今回は「神は義です。」ということを考察しましょう。
神はご自身の性質として「聖」なるお方であるとともに「義」なるお方です。神は人間に「聖」であることを求められたのと同じ理由で人間が「神の義」をもつものであることを望んでおられます。神はイエスの贖罪によって人間が「聖」であることも「神の義」であることも備えられました。
冒頭に掲げた最初のみことばに、旧約の時代に人間が義である条件が記されています。それは「律法を行う、遵守する」ことです。二番目のみことばに、律法を守ることによっては義となれなかったと解説されていて、律法は「人を義としないで、罪の意識を生んだ」としています。
神の義を、ひとに与えられた神の義よって考えます。アブラハムは「全世界をさばくお方は、公義を行うべきではありませんか。」(創世記 18:26)と神に対して主張しました。神の義は公平にさばきをすることに示されることが人間の目に見える一つのことでしょう。「さばき」は「判断する」ことを意味しています。新約の時代である今は「旧約の律法」に代わって「キリストの律法(戒め)」を守ることです。