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― Q&Aルーム ―

—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」-報告-178 —
   -- 2026年3月 開催 --

山本 咲


歴代誌Ⅰ 1章

ここにはアダムから始まり名前が順に記されている。これを読みながら何を学ぶのかと思うところもあるだろう。歴代誌というのはずっと後の時代に書かれたものである。捕囚の問題が前回のところでも取り上げられたが、捕囚から帰ってきた民がもう一度復興をしていくという状況の中で書かれたものが歴代誌である。約束の70年を過ぎて彼らは帰還が許された。失われた年月の間は礼拝をおこなうことができなかった。だからこそ、神を礼拝するところから復興していくことが求められた。それゆえに歴代誌は書かれたのである。サムエル記と列王記は預言者が記したと言われており、この歴代誌は祭司が書いたと言われている。私ももう一度読む中でよくこれだけの人々の名前が記され、残されていたのだという事実に驚かせられる。捕囚からの帰還の民が自らの身分と、そのルーツを証明するためにこの系図は欠かせなかったのである。この系図もアダムから始まり、ノア、アブラハムと進んでいって、イシュマエルやケトラについても記されている。きわめて広い範囲で人々の名がのこされている。そこには神の選びの民としての資格を持っていたということも感じられる。アダムからエサウまできて、2章からはイスラエルと呼ばれるヤコブから取り上げられている。これまでのところにニムロデのことが記されていることや、名前の羅列がある。事柄の記述として書かれているところもあるが私はこの中で特に改めて重要なことはないと感じる。それよりも取り上げるべき大切なことは、信仰が継承されているという事実である。神の助けと恵みがあり、信仰が受け継がれていくという取り組みがなされていたのだ。また、この系図が○○人というかたちで終わっている人々はそういう意味でその人々の一部にのみ信仰が伝わったと考えられる。しかし、絶えることなく長い時間をかけて神が信仰の営みを守り導き、その忍耐の中で育まれ続けている事実がわかる。そして、人間はその中で信仰を育み、子どもを育て、時間をかけて継承していく。それを神はよしとしてくださり、御旨としてくださっていることを見るのである。ただの名前の羅列に見えるが、それだけの時間が豊かに費やされているのである。ここだけを読むとあたかも個人との関係において神は無関心と思われてしまいがちだが、時間の経過とともに莫大な営みがあり、そこに一人一人とのかかわりがあり、神との間に交わりがあることを言葉では書かないが、読み取ることができるのである。私たちの人生もこの地上での生を終え、自らの存在の記憶すら残らないと思うかもしれないが、ただ産まれて死ぬのではなく、神がそこに交わりと導きを与えられることを見出していくことができるのだ。そして、それを信じていくことができ、その信仰を継承していくことができる恵みを感謝する。教会には昨年クリスチャン5代目の子どもが生まれた。この日本という国の中にあるからこそ、これがとても感謝なことであると実感する。ここまで主の守りと導きが豊かにあったからこそである。そして信仰を継承してきた者たちがいることを覚える。それは本当に主の前には小さなことである。私たちがこの系図に載っていたとしても日本人とひとくくりにされて終わりかもしれない。しかし、神が私たちに救い主を与え、その神の恵みの中で生きることが許されていること、選びの民としての私たちの名が記されていることを感謝し、礼拝者としての自らをなお主の前に歩ませていただきたく願う。

Q:系図の中に大体男性名が並んでいるのですが、妻の名前が書かれていたり、妹と書かれていたりとありますが、それは何の意味があるのですか。

A:その名前を調べることができる人物、関連性を見出すことができる人物もいるが、ほとんど書かれていないことが多い。無理やりそこから意味を見出すよりも、系図として単純に捉えるほうが良いと考える。確かにそのような流れがあり、そこに個人がいたこと。その名前が残っているという事実でよいだろう。本来聖書とは、その内容に対する知識を持っていることを喜ぶものではなく、それを元に信仰生活、神とのつながりに結びつくことが重要である。それを通して励まされ、導かれ、正されていくことが求められている。系図はその意味で難しい内容だろう。しかし、それを外すものではない。そこには確かな継承の歩みがあり、喜びを見出すことができる。同時に信仰が継承されるとはどのようなもので、何を大切にしていくかによって変わってくる。だからこそ、この箇所から安易にとらえてどこかと結びつけるよりは、その継承に関わる神の忍耐、憐れみというところにとどまる方がよいと私は感じる。

Q:先ほど先生が系図には余計なものを入れていない、ひとりひとりが接している事実が書かれていると語られました。聖書日課で系図が出てくるとさっと読んでしまいます。また、私たちが賛美する讃美歌も短い言葉で伝わるものがあり、その歌詞をただ口遊んで終わってしまうこともあります。しかし、そこに記されていることにこれからは目を向けていきたいと感じました。 A実際、今私たちは信仰の継承を含めて、この教会は幼子から年寄りまでが偏り無く集っている。同じような状況の教会をインターネットなどで探すとSNSなどで日本の教会に若者が少なくなっている状況が浮き彫りになる。また、その関連でみたある教会では若者を受け入れるためには若者が行っていることを容認しなければならないと語られていた。教会という環境ではどうしても若者が何かをし始めるとその風習などから止められてしまうことがある。だからこそ、そのようにするのではなく、若者のしたいことも受け入れようというのだ。昔の讃美歌では言葉が難しくて意味がわからないから多くの人に分かりやすいものにしていこうとワーシップソングなどを取り入れる教会も増えている。ギターなどの楽器を取り入れるところもある。ただ私たちの教会はあえてそのようなことをしていない。しかし、その中でも若者達は育まれていき、讃美歌の中にその麗しさを見出し、神への賛美に行きつくということを感じている。教会によって考え方は異なるからこそ、手法もさまざまである。ただ私たちは真実に真理の中に生きることと、その中で子どもたちを育てること、また、そこに知識が後から追いついていくことを信じながら歩んでいる。事実、私達の教会の若者たちが礼拝や集会の中で一生懸命歌っている。その姿勢こそが本当に重要であると感じる。
私は若かった時、讃美歌を一生懸命歌っていたが、その意味を吟味したことはなかった。しかし、アメリカに留学して、説教が不慣れな英語でわからない中、霊的に枯渇していたとき讃美歌を英語で歌うと日本語の歌詞が心に浮かび上がり、歌詞が響いてきたのである。その時、本当の意味で初めて讃美歌が心に豊かな慰めと励ましになった。勿論それまでの間で意味が分かる前に教会を離れてしまったら意味がないのではと言われるかもしれないが、そこに主の憐れみが働いていることも併せて感謝する。先日の祈祷会で賛美のリクエストを行ったが、プレイズワールド(子ども向けワーシップソング)の曲が一曲もなかった。子どもたちがリクエストしていたのもインマヌエル讃美歌だった。それほど子どもたちの中に賛美が広がっていることを感謝する。もちろん意味がどこまで分かっているかということはある。しかし、それでも彼らの心に残るものであることを覚えて感謝する。
先日礼拝の特別讃美であるご夫婦が賛美をしたが、それは特別上手なわけでもなく、淡々と賛美されていた。しかし、それが大切だと思った。涙するほどでも強く響くというわけではない。ただ、常に神が日々の中に御臨在し守り導いてくださっていることを感じる賛美だった。それは今日お読みした系図のように特別な何かということではない大切さが感じられたのだ。

Q:私も自分が特別讃美をするときに上手にひくことが重要なのではないと頭では分かっています。私は今日孫娘との話の中で「御用が守られるようにお祈りしててね」と伝えられました。上手ではなく、御用を行うということが重要だと感じたことを伝えられたことが感謝でした。

A:それこそ信仰の継承である。それは系図には載らない。しかし、それはある印象をもって孫に伝わる。ならば、あなたは次に讃美歌に向かう姿勢として、孫娘の前に真実でなければならない。それがその先で恵みとなり、信仰者の姿として孫の前に映るのである。なおぜひ取り組んでいただきたい。

Q:最近日々の慌ただしさの中、ふと引き戻されることがあります。先日聖別会でテキストを読んだ際に高津教会という名前が取り上げられていました。私は結婚以前まだ信仰を持つ前に高津というところで働いていました。その際に今の主人が通っている教会のことを知り、教会のことを調べて同じ「聖泉」という群れの教会が近くにあることをしってそちらに通うことを決めました。結婚した後に当時通っていた教会の先生と話す機会があり、「高津には大きい教会があるが、そこではなくてよかったね」と言われました。それはきっと大きい教会、有名な教会ということだけで選んでいたなら私はまた違った道に進んでいたかもしれないからだと思います。先日の礼拝で当時の私の結婚のことが語られていて、もう一度自分への導きを感じて感謝を覚えました。だんだん時間がたって周りの慌ただしさに現実を見るので精いっぱいになってしまいやすいですが、その時をもう一度思い出すことが重要であると感じ、感謝をしました。

A:婦人会の時にも語ったが、それぞれの信仰の歩みと、実践がある。私はこうでなければならないということを優先しようとは考えていない。だからこそ、それぞれが信仰の姿勢というか、神との関わりの中で何を選んでいくかが重要だと感じる。慌ただしい中で落ち着けるわけがない。3人の子どもたちを抱えているのだから当然である。そう簡単ではない。もちろん時に神があることから手を引くことを求められる。例えばある大切なものを守るためにもう一方をあきらめるという選択を迫られることもある。しかし、同時に二つのものを抱え続けることが求められるときもある。私も自らを振り返るとやっと末の娘が自立して働き、両親も天におくって、それで落ち着いてきた。だから今はよく夫婦で話をしている。今までを振り返ってこうだったああだったと話している。あなたとの結婚の時には旦那さんが命懸けで私へ話に来ていた。彼は教会の状況がわからない人ではなかった。だからこそ色々な思いを背負って私のもとに来たのである。そして、彼をそうさせたのはあなたへの愛である。不思議なように聖泉も荒川と巣鴨があり、あなたは巣鴨を選んだがそこにも選びがあったのかもしれない。神のご計画と摂理のなかでことが進み、今ではあなたもクリスチャンホームを建て上げている。恋愛ということは相手に魅力を覚えるということかもしれないが、その魅力の背後に主の姿があったことも私たちは感謝する。当時はそれによって教会が「恋愛結婚」のような方向にばかり行ってしまったらどうするのかということが話題になった。「そのリスクを考えると」ということだったが、私たちは信じてこのことを進めさせていただいた。あなたの子どもたちにも今後、人の魅力や「あなたがあなたである」という事実、価値観を教えていけるかが重要になる。あまりに謙遜ばかりを教えるといつの間にか魅力的でなくなってしまう。とはいえ、世的な魅力に走ってはならない。だからこそ信仰者としての魅力を自らに導き続けていくことが重要になる。それを教えていくのは親であるあなただ。あなたが救いに導かれるきっかけにもなったあなたのご主人に見出した信仰者の魅力を子どもたちにも教えていってほしいと願う。

Q:ヨブ記の14章1節、2節について今日デボーションで示されました。人の悲哀というか、自分自身のここまで生きてきた現実に共感するところがありました。今年初めに木村拓哉の東京タクシーという映画を見ました。主人公が個人タクシーの運転手をやっていて、ある一人の女性が乗ってきて話をしながら、2人の人生の重なり、心の交流がなされる映画でした。人生のやるせなさや、きれいじゃない現実を映し出していました。クリスチャンとして自分が生きていても、このヨブ記やその映画で語られていたような現実を経験します。特に咲き出でても切り取られという言葉に、長く辛いトンネルを出たように思ってもまたすぐトンネルに入ってしまうような、苦しさを覚えました。この言葉を切り取ってしまえば、人間ははかないものと言って終わってしまうのですが、そうではないしみじみと感じる何かがあることを覚えます。今まではこのようなところに目がいかなかったのですが、最近強く惹かれるようになりました。

A:人生を生きることや、歳を重ねるというのはそのようなものである。若さは期待し、信じ、可能性を見出すからこそできる。しかし、歳を取れば、自分の限界にも出会う。そういうものであることを思う。実際、現実成功したように見えてもそう簡単ではないこと、それぞれの中に抱える問題があることも覚える。だからこそ、その必然のなかで神が何を与えてくださっているのかを考えていくことが重要なのである。そうでないと最終的には悲壮感で、聖書にはならない愚痴のようなもので終わってしまう。ソロモンも「空の空、すべては空」と語っているように、結局はなにもないと思えてしまう。しかし、だからこそ、神が与えてくださるもの、提供されるものに目を向けていきたく願う。ヨブ記の大切なことは神がねんごろに教えてくださったということである。彼は神が個人的に知るべきことを教えてくださったということを喜んだのである。それを虚しいとするか、神が教えてくださったことを喜びとできるかである。それを分かち合えるかどうかが重要なのだ。互いにだからこそ提示し合い、考えていること、とらえているところを話し合い、同じ土俵の上で考えることができるのだ。聖言がすべてわかったから素晴らしいのではなく、人間は全て神の目の前にはちりに等しいと実感し、それを受け入れ、その上で神が恵みを与えてくださるということを感謝できる私たちでいたく願う。そして、そこにこそ私たちの歩んできた信仰があるのだと思う。虚しさが理解できないと私たちは恵みを受け取れない。日本人はお恵みと言い、嫌う。それは乞食のようだからである。しかし、本来はそのような姿こそ現実であり、それが重要で、私たちはそのような存在であることが事実なのだ。これはお題目ではない。最終的にそこに至ることができれば感謝であると感じる。

Q:ヨハネの福音書1章47節のところにナタナエルのことが語られています。何をもって彼は本当のイスラエル人だといわれたのですか。

A:ナタナエルの肯定的な部分であり、評価している部分である。イエス・キリストは丁寧に弟子を迎えることをしている。ペテロには彼が私から離れてくださいと語るほどの出会いの中でそれでも私についてきなさいと主イエスは語られた。そして同じようにナタナエルにもこのようにして出会いがあったのだ。このところにはイエス・キリストが彼に目を留めていた事実が語られている。その接点がイエス・キリストとの結びつきを作り出した。イエス・キリストは丁寧に人格を扱っている。先日取り上げたニコデモに対しては厳しかった部分が書かれていた。とはいえ、それはニコデモがすでに本気でイエス・キリストのもとを訪れているからこそ、厳しく扱った部分がある。イエス・キリストは人としてお生まれになった。その故に丁寧に人格に関わっている。私たちは福音に携わった時どのように接するかが重要になる。それは何処で養われるのだろうか。日々の中である。家族、教会、職場という対人関係の中で、相手との関係を豊かに作り上げていくのである。どのような言葉を選び、相手と関るか。私たちは最後までその人を導けないかもしれない。しかし、それまで関わったからこそ、どこかでそれが結びつき最後に導かれるところがあることもまた信じている。私たちの人生の中で関わる人々は神の働きの一部であると信じている。そのような中で行われている事実が大切なのだ。経験値もまた神が与えてくださったものである。だからこそ、私たちの恵みを覚え数えながら、神との交わりの経験に結び付けていく。そしてそれをまた子どもたちに語っていくことで彼らに受け渡すことができるのだ。それは不思議なようだが、その経験を聞く子どもたちの中に経験値として継承できるものとなる。それは全く話を聞いていない状況とは決定的に違う部分を作り出す。そしてそれを積み重ねることが継承なのだ。だからこそ、そのような機会を活かしてほしいと願う。
今日は系図から始まり、どうなるかと思っていた。悩めば悩むほどどう語るべきかと感じていた。だからこそ、本来なら備えのために部屋にいく時間になっても教会に来ていた子どもたちと関わっていた。しかし、それを覚えながらも、このようにして神が継承について語ってくださったこと、それについて導きがあったことを感謝する。なお、継承され、私たちがここで結ばれていることを合わせて感謝するとともに、これからも私たち自身が与えられたものを次の人格に受け継いでいくためにこの地上の生活にあっても信仰者としてその召しと共に歩ませていただきたく願う。

(仙台聖泉キリスト教会 牧師)