同労者

キリスト教—信徒の志す—

ショートコラムねだ

— 死は罪、過失から私たちを潔めるだろうか? —


「さあ、来たれ。論じ合おう」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」(イザヤ書 1:18)

 これは説教ではなく、聖書研究の類です。ですから意見を異にする方々はどんどんその意見を本誌の編集委員宛に提供していただきたいと思います。神ご自身が「さあ、論じ合おう」と言ってくださるのですから。どちらが正しいと決着をつけることもありません。ある人々は死ぬまで罪をおかすといい、ある人々は死ぬまで過失を犯すことをまぬかれえないといいます。
「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。」(ヘブル 12:14)と書かれていますが、この「聖い」とは聖化の恵みに与って神の前に「聖い」と認められることであると考えられています。
「聖い」は「聖化」「聖潔」「きよめ、「潔め」「キリスト者の完全」などいろいろな呼び方がなされます。
聖化されていない人は神に会えないのです。今の私たちは「死んだ後に」主にお会いすると考えてよいでしょう。人は肉体にある、今生きている状態では「聖化」「キリスト者の完全」に与ることはないと主張する人々がいます。
「キリスト者の完全」を主張したジョン・ウェスレイは、「罪」と「過失、無知による誤りなど」とを区分し、生きている間は過失を免れることはないが、過失があっても「聖い」と認められるとしました。
聖化されていない人は「原罪、罪の根・・」を持っていることを意味します。
それで死による区分が主張されます。「死んだ後には聖化されていて主にお会いできる」と。

この文を書いている筆者は、死は私から何を取り除くのか?と考えます。
それは「肉体に付随するものだけ」であろうと推測します。私は今のままの意識と意志、死が罪を潔めることはなく罪があればそれも持っているまま次の世界に移るであろうと思います。
そうでなかったら別の人になってしまうでしょう。別の人が裁きの座に立つのでしょうか?そんなことはあり得ません。
ですから次の世も今の延長上にあるはずだと信じています。死んでも全知にはなれないから過失、誤りも持って行くでしょう。
罪の本質は「自分で主権をもって」「神の主権に従わない」ことにあります。自分の主権を神に捧げたとき、神がそれを受け取ってくださるのです。その時「死」を経験します。それが「キリストと共に死ぬ」こと、肉体の死でなく霊の死であって、聖めは贖いによる神のみ業です。
 幸い筆者は「きよめ」、ウェスレイの主張する「キリスト者の完全」の恵みに与ってそれに生きてきました。過失、傷だらけの人生でしたがウェスレイの主張どおり私は「きよめ」を失いませんでした。